2016年6月5日

むかし見た芝居4―現代劇としての歌舞伎〈前篇〉(2005年12月南座「吉例顔見世興行」)



今回再掲するのは、2005年12月に南座で見た「吉例顔見世興行」の感想です。三代目中村鴈治郎改め坂田藤十郎襲名披露公演でした。襲名狂言の相手役は、いまは亡き四代目中村雀右衛門です。大名跡の復活と襲名ということで、非常な興奮をもって見た芝居でした。そのため筆にも力が入り、前後篇の長文となっています。いまから考えると、雀右衛門を生で見ることのできたのは幸運なことでした。そして、翫雀がいやま四代目鴈治郎となり、雀右衛門の名跡も芝雀が襲ぐことになりました。時の流れははやい。同時に、いまなお健在の藤十郎は、やはり化け物のような役者だと心底感心します。

現代劇としての歌舞伎〈前篇〉


学生時代、京都に住んでいたこともあり、今でも阪急電車を降りて京の町に出ると、何ともいえない懐かしさがこみあげてくる。やはり京都は、私にとって、特別の街である。

その京都でも、とくに南座という場所は、また別の風格を備えている。もちろん建物は古いし、狭い。エレベーターも無ければ、座席の間隔も新しい劇場とは比べものにならないほど狭い。だが、この狭さが、ある風格を醸し出すのだ。そういえば、この狭さを私は別の所でも体験したことがある。そうだ、それは甲子園球場の内野席だ。南座と甲子園、この二つの場所は、実に似ている。ともに今では忘れ去られようとしている「昭和」の匂いと、そこに息づく日本人の生活に根ざした娯楽の殿堂としての風格である。

さて、その南座の顔見世から、鴈治郎改め坂田藤十郎襲名披露が始まったことは、嬉しいことだ。ことに、上方歌舞伎再興の気運が高まる昨今、その旗振り役の一人であった鴈治郎が、坂田藤十郎という歴史的な名跡を襲うことは、いかに時代錯誤の声があろうと、私は支持したいと思う。そう思いながら、昼の部を観た。

口切は「女車引」である。その名から分るとおり『菅原伝授手習鑑』にちなんだ舞踊で、松王・梅王・桜丸のかわりに、それぞれの嫁姉妹である千代・春・八重が「車引」と「賀の祝」にちなんだ所作を繰りひろげる。何とも洒落た舞踊であり、いかにも京都での顔見世に相応しい演目だと思った。

まず目に付いたのは孝太郎の八重の可憐さである。いちばん妹格の八重であるから、花道の登場からいつも最後列で控えめな様子でいるのだが、その控えめなところが、また可憐さを引き立てている。魁春の千代は、ひとり台傘を抱えて上手からの登場であるが、その風格はさすがであった。魁春という人は、姫様をやらせれば当代一だと私は思っているが、いよいよ、それに加えてこういった風格が出てきたことは喜ばしい。そしてその二人に挟まれたかたちになる扇雀の春が、二人に負けない大きさを持っていたことが舞台のバランスを心地好いものにしたと思う。三人の息も良くあった、楽しい踊りであった。いずれにしても、顔見世の幕開けと、来る新年を寿ぐ、目出度い狂言である。

続いていよいよ新・藤十郎披露狂言「夕霧名残の正月由縁の月」である。「夕霧名残の正月」といえば、近松門左衛門による作で、初代藤十郎の当たり芸として演劇史に名を残しているが、当時の台本は散逸しており、今回の台本は資料をもとに松竹の今井豊茂が書き下ろした新作舞踊劇である。

梗概を記すと、大坂新町の扇屋では名妓と謳われた夕霧が死んで四十九日、主人の三郎兵衛と女房おふさが法要の支度をしている。そこにかつて大坂屈指の豪商藤屋の若旦那であったが、放蕩の末勘当され、いまは粗末な紙衣姿に身をやつした伊左衛門が姿をあらわす。零落した我が身と、廓の華やかな様子を引き比べ、我が身を託つところに現れたのが太鼓持ち鶴七と亀八。二人から夕霧の死と、今日が四十九日だと知らされた伊左衛門は、その死に目に会うことができなかったことを嘆き、せめてもの供養に、かつて夕霧と交わした起請文を広げる。すると何処からともなく、夕霧の声が聞え、やがて夕霧その人が姿をあらわす。二人は再会を喜び、一時の逢瀬と情を交わすのであった。やがて夕霧は姿を消し、そこに伊左衛門の来訪を知った三郎兵衛とおふさがやってくる。伊左衛門は二人に夕霧と会ったことを話すが、夕霧と見えたのは形見の裲襠であった。しかし、たとえ夢幻であっても、夕霧と再び会えたことを喜ぶ三人であった。

台本の良し悪しは言うまい。なぜなら、藤十郎がこの狂言を襲名披露に選んだことは、必然だからだ。まず伊左衛門と紙衣、それこそ初代藤十郎の代名詞だ。さらにいうならば、初代鴈治郎は、この扇屋の娘と三代目翫雀の間にできた子供だった。その意味で、新・藤十郎の披露は、やはり伊左衛門であり、紙衣であり、扇屋でなければならなかったといえよう。

さて藤十郎の伊左衛門であるが、これはまさに彼の芸の総動員といった内容を持っている。まず花道の登場から七三でのセリフ、これが圧巻である。恐ろしく短いセリフを実に長い時間をかけて、それでいて一気に言う。これほどの台詞回しの技術は、斯界屈指ではないか。また、「河庄」の紙治を思わせる和事味溢れる動き。「吉田屋」の伊左衛門以上に、芯の強さを感じさせるピントコナの伊左衛門である。また、夕霧の声を聞いて、慌てて鬢を直すしぐさでのチャリ。いわば上方和事のあらゆる技巧が展開されるのである。

雀右衛門の夕霧が登場してからは、この二人の人間国宝の至芸が思う存分展開される。雀右衛門の夕霧は、立居振舞いこそ抑えたものであるが、少ない動きと「わしゃ、患ろうてのう」のセリフ一つで伊左衛門と夕霧二人だけの世界が展開されるのが圧巻である。その二人の芸格の大きさ、今回興行中の別格である。我當の三郎兵衛、秀太郎のおふさは、ともに誠実味ある演技だ。そして太鼓持ち鶴七は進之介、亀八は愛之助である。つまり、上方役者の若手で脇を固めている。最後に唐突に我當が「ところで伊左衛門様、今日は何でも御襲名の御報告とか」の一声で、一転、場が襲名口上となったところが心憎い。

劇中での口上は、藤十郎の両脇に我當・秀太郎が並び、後には彼らが手塩にかけて育てている上方歌舞伎塾出身の名題下が仲居姿で控えている。つまり、この口上は夜の部の口上とは違い、まさに上方歌舞伎再興の象徴となる、いわば上方の歌舞伎ファンに向けたものだったのだ。それだけに秀太郎の「ここにおります役者は、みな上方の役者で御座います」の言葉が胸に響いた。松嶋屋兄弟の後進育成への地道な活動を知っているからだ。彼らのさらなる活躍のためにも、藤十郎の「私はまだ若こう御座いますから」の言葉どおり、これからも末長く上方歌舞伎の発展を祈らずにはいられない。

次は『義経腰越状』から「五斗三番」である。これが実に面白い。とくに吉右衛門の五斗兵衛は、芝居の上手さが光る。下手まいら戸の出から、酒を勧められるところまで、決して世話にくだけず、かといって大時代にもならない立居振舞いが、いかにも「軍師」という五斗兵衛の風をよくだしている。酒を飲んでからの酔態、兵法問答での「弓、鑓、鉄砲」の豪快さと可笑しさ、さすがである。

そして、この吉右衛門の五斗兵衛を充分引き立てたのが、歌六の錦戸太郎、歌昇の伊達次郎である。さすが兄弟だけあって、実に息のあった手強さである。また、これは萬屋の芸風でもあるが、しどころでずいぶん芝居をする。これは東京ではクサさと取られるが、上方ではかえって受けるのである。それだけに、吉右衛門との遣り取りが、ずいぶん面白いものになった。そう言えば、萬屋そして播磨屋の祖である三世歌六は、上方の役者であったことを思い出した。

松緑の亀井六郎は、声がすばらしい。雀踊りとの立ち回りも面白い。だが、やや意気がよすぎるのか、若衆としての色気にやや欠ける。翫雀の義経は、人の良さが出たのか、暴君としての荒々しさがもうひとつである。

梅玉の泉三郎は、いかにもこの人の不思議な芸風が現れていた。そもそも、梅玉という人は、とくに演技に小手が利くわけでもない。しかし何ともいえない気のいい役者である。だから、やはり気のいい役である泉三郎を、さらりと演じていて、それでいて決して上滑りしない。この人の仁であろう。

終盤、竹田奴と五斗兵衛の目貫問答、そして三番叟と立ち回りだが、この辺の展開はやや難解だ。あまり理解できなかった。というのも、こういう皮肉な踊りは、ほとんど役者の風で見せるものであるから、あるいはやや吉右衛門の理屈が勝ちすぎたか。

後篇につづく)

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