2016年9月19日

不倫が“芸の肥やし”になることなどない


歌舞伎に関するゴシップといえば女性問題がいちばん多いわけですが、今回は橋之助が槍玉に挙がっています。キャバクラ遊びやお座敷遊びは、文字通り“遊び”ですから、やはり遊びの延長線上に誕生した芸事では避けることのできない場でもあります。しかし、勘違いしてはいけないのは、男女間の不倫や不義が“芸の肥やし”になるという考え方の本質です。はっきり言って不倫が“芸の肥やし”になるなどということはないのです。

歌舞伎役者が様々な女性経験を積むことは、その役者の「色気」を生み出す源泉になるという考え方があります。だから、世間も妙に役者の男女間の不倫・不義に甘い風潮がある。ただ、私はこういった考え方に疑問を持っていて、“芸の肥やし”なる言葉が、役者の乱脈を是認する免罪符になっていることが非常によくないと思っているのです。

こうした考え方を私に教えてくれたのは、“不死身のジャッキー”こと四代目中村雀右衛門でした。雀右衛門の自伝に『私事―死んだつもりで生きている』という本があります。



これは戦後の歌舞伎史において数奇な経歴を生きながら、六代目歌右衛門亡き後に立女形の頂点に立った雀右衛門の並々ならぬ生き方を率直に語った貴重な文献ですが、その中で雀右衛門は「色事は芸のこやし」という考え方を明確に否定しています。雀右衛門は生涯で「女房以外の人を好きになったことはないんですよ」と断言した上で、次のように語っています。
役者に色気は大事です。でも、それが女性とのお付き合いから出るとは、わたしは思っておりません。男としてのわたしは「棒杭」のようなものです。ただそこにあるだけでなんの役にも立たないようなものです。
もし、わたしの舞台に色気があるとするなら、それは長年のあいだ鍛えた技術のゆえです。色気とは、指一本の動かし方、声色の出し方によって出たり出なかったりするものだと思っています。指の角度、首の傾げ方、そのときどこをみるのか、声の高低、間の取り方。それらすべてを意識的に行いながら、それでいて渾然とした調和を生み出しているのです。それは色気に限らず、哀しみ、歓び、悔しさ、怒りといった感情すべてについていえることではないでしょうか。歌舞伎とは、人間の心をもっとも美しい所作、型によって表そうと研鑽してきたもののように思えます。
私は、この雀右衛門の考え方を全面的に支持します。そもそも役者の個人的な経験が演技の本質に影響を及ぼすというのは近代主義的な考え方で、歌舞伎の本質からは外れるのです。

もっとも現代の歌舞伎は近代主義的な感覚なしには見ることができないし、それなしでは社会に受け入れられないでしょうから、雀右衛門のような考え方は一種の原理主義として価値があるにとどまるのかもしれません。

しかし、近代主義的に役者の経験と内面が演技に影響を及ぼすなら、役者は嬉しがって女遊びをしていてはいけないのです。女遊びをするなら、それによって世間と対立し、傷つき、悩むべきであって、その苦悩の経験を演技に昇華させる激しい修行が必要なはずです。少なくとも「芸の肥やし」を免罪符にして自分の乱脈な生活様式を是認するような生き方では、歌舞伎の本質的論どころか、近代主義的な芸術論からもほど遠いのです。

そういう意味で最近、素晴らしいと思うのは海老蔵の生活様式です。私は海老蔵信者なのでバイアスがかかっていることをあらかじめ告白しておきますが、それでも小林麻央さんと結婚したころから、海老蔵の芸が格段に良くなっていきました。やはり乱脈だった独身時代と異なり、結婚して修業に集中できる環境が整ってきたということでしょう。

そして現在、夫人の闘病という試練に直面し、海老蔵が苦悩していることは周知のことです。そういう苦悩は、海老蔵の芸を一段高いものにする可能性がある。しかし、海老蔵自身は、例え自分の芸がダメになったとしても夫人に元気になって欲しいと思っているはずです。そういう芸術論を超えた人生論が、結果的に芸の本質につながっていくのでしょう。だから、いまの海老蔵は「色事は芸の肥やし」などという言葉を100%信じていないはずです。

やはり、不倫が“芸の肥やし”になるなどという考え方は甘えであり、それを免罪符にした役者の乱脈な生活様式は、批判されて当然なのです。

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